ガリバン人生   1979年3月「道友」掲載   白崎重夫
  昨年の11月、仕事に熱中のあまり、ついお年玉つき年賀はがきを買いそびれてしまった。もっとも例年になく早く売り切れてしまったことと、追加販売がなかったことが災いしたわけであるが、そのために、私としては生まれて初めて年賀状を外注するはめに陥ったのである。 

 私製はがきにガリ版刷りをとも考えたが多忙であったことと、お年玉つきの方が相手の方にささやかな夢を一緒にお贈りできるので印刷屋さんに頼んだ次第である。  例年師走に入るとすぐ、今では年に数回しか使わなくなったヤスリを出してきて、ああでもなし、こうでもなしと考えながら年賀状の製版に取りかかり、手製の謄写版で印刷をするのが私の数少ない楽しみの一つでもあった。

 私とガリ版(孔版というのだけれど、ガリ版の方がポピユラーな感じがする)との付き合いは、十数年連れ添った女房との付き合いよりも歴史があるので、披露してみようという気になった。

  小学四年生の頃(その頃私は紅顔の美少年だった。今でもその名残りがあると言う人もいるし、へえ−そんな時があったのかと言う人もいるが、自分ではそう思っている)、当時発刊されていた少年雑誌の付録にボール紙製の謄写版がついたことがあった。ヤスリはサンドペーパーで、ローラは綿を糸でくくり、インクは煙筒の油煙をオイルで溶いたものを使った記憶がある。生まれて初めて印刷というものを経験した嬉しさのあまり、付録についていた原紙をまたたく間に使い果たしてしまった。その当時原紙をどこで買うかも知らなかった私は、兄貴に頼んで勤務先から持ってきてもらい、小さく切ってはデコンボ(子供の顔)や文字を書いたものである。 

 小学校卒業の間際に文集を作ることになり、なぜか私も文集委員に選ばれてしまった。悲しいかな文章を書くのが苦手だった私は、自分で文章を書いたり、編集することができないので、印刷を受け持たせてもらうことにした。この時初めて本物のヤスリを相手に、手に豆をつくりながら文字を書き、手や服に墨をこすりつけながら印刷してできあがったものを見た時、どうしたら先生のように綺麗にできるのか不思議でしかたがなかった。あとで担任の先生から「お前、割りかし上手じゃないか」と言われた時は本当に嬉しかった。

  中学生の頃は町内の子供会で新聞を作ったり、高校に入ってから購買部でパンの予約券を刷ったりしているうちに、だんだん馴れてきて、時には教師のテキスト印刷を手伝ったこともあった。その頃になると次第に欲が湧いてきて、どうしたら綺麗な文字が書けるか、どうやって刷ったら綺麗に印刷できるのか考えるようになった。しかしまだ専門的な 知識は皆無に等しく、ラブレターをガリ版で書いたら上達するかも知れないなどとくだらない考えも抱いたことがある。これは相手がいないため実行はできなかった。少しずつわかってきたのは、一にも訓練、二にも訓練で、数多く書いているうちに上達するということと、鉄筆もヤスリも文字の大きさや字体で使い分けしなければならないということであった。 

 そうこうしているうちに、どういうわけか地元の地方銀行に入ってしまった。(自分から選んで志を持って入行したと書けば格好が良いんだろうが、どうも校長と就職担当の教師の陰謀で入行試験を受けさせられたような気がする。しかし結果的に は感謝しなければならないのかも知れない)現在、銀行が顧客から徴求する諸届の用紙類は本部で印刷してくれているが、当時は様式が「事務提要」に印刷してあって、必要に応じ西洋紙か便箋に手で書いて署名捺印してもらったものである。忙しい時などは白紙に署名捺印などという乱暴なことも間々あったが、これでは能率が良くないと思い、宿直の晩になると午前1時か2時頃まで「通帳紛失届」や「印章紛失届」などいろいろな用紙を百枚くらいずつ印刷したものである。 銀行の隣の文房具屋さんから「最近銀行さんは原紙や西洋紙を良く使いまね、一体何を印刷しているんですか。もしかしたらお札を印刷しているんじゃないですか」な どとあらぬ疑いもかけられたが、「給料が少ないものですから」と切り返して、性懲りもなく鉄筆やヤスリを物色させてもらった。

 その文房具屋さんの可愛い娘さんが当行の職員のお嫁さんになることをその時知っていたら、きっと給料が少ないものですからとは言わないで 「ご融資を受けられる方が多いものですから」と答えていたかも知れない。ついでに白状してしまうと、入行前にその文房具屋さんの数軒隣の写真屋さんで、入行試験用の写真を撮ってもらっ て写真代をいくらか払ったが、そこの娘さんが何年か後に私の女房になることをその時知っていたら、きっと写真代は出世払いにしてもらっていたかも知れない。

  私がガリ版の通信講座(正式には文部省認定近代孔版技術通信講座という)を受講したのは25〜26歳の頃であった。「あなたでも美しい文字が書けるようになります。サァ今すぐお申し込み下さい」という新聞広告につられて申し込んだら、折り返しテキストと練習用原紙が送られてきた。 

 この時私のガリバン人生は大きな転期を迎えることになるのである。印刷の原理から始まって、ヤスリの使い方、鉄筆の選び方、線の引き方、基本文字 の書き方、インクの練り方、印刷の仕方、紙のめくり方などの基本を根気よくマスターていき、最後は色刷りと製本技術を一通り習得することができた。この間2年程かかったが、途中で同好者のサークルにも入り、お互いに技術を競い合ったり、年賀状を交換したり、時には定山渓で行なわれた合宿スクーリングにも参加したりして、技術の習得だけでなく多くの知己も得たのである。また印刷屋から忙しいので手伝ってくれと言われて下請けもしたし、知人に頼まれて小説を本にしたこともある。

 ある時、通信講座の実施団体が主催している全国誌上展にピンホールによる絵を出品したところ、まぐれにも上位入選してしまった。選者が私の作品を評して「ピンホール本来の表現対象としては微妙な濃淡の変化にあるが、それを思い切って単純化平面的に取扱っている。それでいてギリギリの立体表現の部分は手を抜かないツボを心得ている。一般にはすすめられない技法で成功」と言われ非常に気を良くしたこと を記憶している。しかし誌上展にはその時1回しか出品しておらず、もしその後も出品しておればますます腕が上がって、全国に名を馳せたかも知れないと思うと今でも残念でならない。あるいは2回目で落選して意気消沈し、ガリ版から足を洗っていたかも知れないので、1回きりで艮かったのかも知れないとも思っている。

  入行以来初めて5日間の夏休みをもらった時、孔版技術地方指導員養成講座受講のため上京し指導員の資格を頂戴したが、今だかつて人に教えたことがない。自分ではまだまだ未熟だと思っているので教えられないのだろう。今でも鉄筆を握ると1字1字練習のつもりで書いている。  ここ数年は子供達が世話になっている学校のPTAだよりや、女房が首を突っこんで いる札幌の図書館づくりをすすめる会の講演会案内状や入場整理券などの印刷がほとんどで、趣味と実益ではなく、むしろボランティア活動の一つになっているようである。 

 昨年の五月、日本生産性本部主催の「生産性の船」に派遭させていただいた折、船中での課外活動として新聞広報サークルに籍をおいたのであるが、船の中にはヤスリも鉄筆もなく、ボールペン原紙に文字を書いて手動式輪転機で印刷するだけであった。私としては折角の機会だから、自分の技術を活かして、単調な船内生活を彩りたかったのだが、主催者側の言葉を借りて言えば「今までの参加者の中にはそんな技術をもっている人はいなかったのでヤスリも鉄筆も用意していない」そうである。 それでも、13日間の研修期間中に6人のスタッフで8号迄新聞を発行し、生産性の船始まって以来の発行号数を記録した。

  話がとびとびになって、自分でも何をテーマに書いているのか分からなくなってしまった。そこで、振り出しに戻りタイトルを見たら「ガリバン人生」とあった。きっと頭の中のどこかで「ガンバリ人生」と間違ってしまったのかも知れない。

  閑話休題、最近は軽印刷機や複写機がどんどん発達して、ガリ版刷りの印刷物はあまりお目にかかれなくなってしまった。しかし、ヤスリの上で書く独得の文字の妙味は、いつまでたっても変わらないと思っている。  いつの日か、自分の時間を持て余す年齢になった時、きっと想い起こして鉄筆を握り、インクを練ることがあるだろう。それまで、私の青春の一頁を彩ったガリ版への情熱の火を、細々ながらでもともし続けたいと念じている。

 

下のカラーの印刷物2枚は「孔版印刷」です。上段は私が製作した木版画を原画として製版しました。下段はピカソの版画を原画として製版しました。

右側のイラストが「ピンホール」で描いたものです。

右下は文字製版です。